爆弾魔とクローン

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 妹を紹介しようと思う。
 身長百六十三センチ、体重は本人いわく木の葉のように軽いらしい。色白でほっそりとしていて、黒い長髪と瞳がひときわ目をひく。兄貴と私は裸眼で零点一以下という視力であるが、妹だけは非常に目がよい。しかも裸眼でありながら眼鏡を介さずして大きな黒い瞳をしている。かといって性格まで黒い(暗い)のかというと全くそうではなく、私と兄貴が舌を巻くほどに天真万欄である。この性格は私たち兄弟にとってほんとうにありがたい。助けになっている。例えば私たちに両親がいないといった陰鬱な境遇を、意にも介さず、むしろ小さな幸福のようにとらえているのである。
 そういえばこんなことがあった。
 兄貴が某生物化学研究所に在籍して間もなくのこと、兄貴は三日三晩飲まず食わずで自室に引きこもってしまったのだ。
 妹は戸惑っていたが、しかしすぐに行動をとった。妹はこのころから常に前向きであった。常に前を見つめていて振り返ることがなかった。どんなに暗い道を歩いていても、闇一色のトンネルに放じられても、妹にはいつも光が見えているようだったーー私のいう天真万欄とはそういった意味である。
 では、どのように前向きであったか。
 引きこもらなかった、のである。
 つまり家出をしたのだ。
 妹は兄貴の部屋の扉の前に書き置きを残すと、当分の間、帰宅することはなかった。
 これには兄貴もたまらず、私と一緒に家を飛び出すと妹の捜索にあたった。
 捜索に実りはなかった。そもそも妹が家出した理由がわからない。妹が行きそうな場所に検討もつかない。ネットカフェなどを転々としながら妹探しに明け暮れた私たちだったが、精根尽き果て、疲労困憊さながらトボトボと夜道を歩いていると、自宅二階に明かりが灯っているのを見つけた。私と兄貴は顔を見合わせると、明かりを目指して一気に駆けだした。テロリストの立てこもる施設に突入する警官隊さながら自宅に駆け込んで二階に上がると、果たしてそこには、丸眼鏡の奥で瞳を微笑ませた私の妹がたたずんでいた。
 兄貴が怒りや悲しみといった雑多な感情を叫びながら、そして涙と鼻汁を垂れ流しながら妹に抱きつくと、妹は困ったような笑みを浮かべていた。
 それ以来、兄貴が自室に引きこもることはなくなった。むしろ、以前よりも溌剌として生活をおくるようになった。おそらく前のように仕事が好転しはじめたのだろう。途中、兄貴の職場の同僚の一人が自殺をとげていたという不幸な事実が判明したが、それはさておき今日、兄貴と私たちは充実した生活をおくっている。
 こうして、兄貴引きこもり事件と私が称する事件は、解決に至ったのであるが、この解決はひとえに、後ろを省みない、前向きな性格の持ち主、妹のおかげである。
 どうして妹のおかげなのかは、さて、読者諸君もお気づきだろう。
 兄貴は溢れる感情のあまり気づかなかったようだが、私も読者同様に気づいていた。
 帰宅した妹は、なぜ丸眼鏡をかけていたのか?
 はじめに紹介した通り、妹は目がいい。眼鏡をかける必要性がない。
 では、私と兄貴が妹捜索をしている間に、彼女の視力が減退し、丸眼鏡を購入して帰宅したとでもいうのだろうか。
 そうではないだろう。ほんの数日のうちにそれほどまでに視力が減退するだろうか。そもそも、妹に丸眼鏡は似合わない。年頃の女の子であれば、それなりのオシャレな眼鏡を購入するはずだと思うのだが。
 つまりは、あの眼鏡、よそものの眼鏡なのである。
 なぜ、よそものの眼鏡をかけていたのか?
 もちろん妹の場合は、目が悪いからかけているのではない。私と兄貴に、あることを教えるためだ。兄貴は気づかなかったようで、妹は困った笑みを浮かべていたが。
 他人の眼鏡をかけるには、借りるか奪うかすればよいが、妹の視力の前にはどちらも必要ないのだから、それはそこにあったからもってきた、とでもいったほうがよいだろう。そしてそれをかけることで示したのだろう。真実を兄貴に告げるのは残酷で、しかしその小さな胸の内に秘匿するには大きな事件であったのだろうから。
 そう、大胆にも妹は、自殺現場から眼鏡を拝借し、持って帰ってきてしまったのだ。
 私はこの疑念を、ついに先ほど、妹へ投げかけた。
 妹は微笑んでいた瞳から、突然に涙を溢れさせ、下唇をかんで悔しそうに泣きはじめた。
 そうして妹は、戸棚の奥から一枚の紙を取り出し、私に読んで聞かせ始めた。
「振り返らないでほしい。君にはいつも前を向いていてほしい。君はそういう人間なのだから。それに僕はすでに、この断崖絶壁から海へ、身を投じようとしているのだから」
 私は、やはりなと納得し、妹の朗読に耳を傾ける。
「僕はこの手紙を、君のお兄さんへの反省文と偽って君に渡している。まずは君が読んで、僕の反省の度合いを推し量ってほいと嘘をついてね。……けれど、もう理解している通り、これは遺書だ。生きている限り希望がある――生きている限り希望を享受できるだろうと君が笑顔で告げてくれたからこそ、僕はその希望を享受してはいけない義務に気づかされた。君のお兄さんに言えば、Σ計画のことをきっとご存じだろうと思うが、僕はそのころからお兄さんの友情を裏切っていたんだ。Σ計画とは、簡単にいえば、完全オリジナルの細胞の培養から始まって、一人の人間を作り上げることをいうのだが、僕は、その作りかけの人間を、殺してしまった。あまりにも恐ろしくてね、この計画自体が。君の命までが研究員に狙われてしまうことを考えると、僕の感じた恐ろしさ自体を、この文書で公開するわけにはいかないが、ただ、この殺人、いや、人間になる前の生物を殺したわけだから、殺人未遂とでもいうべきだろうか? あるいは殺物事件だろうか? とにかくこの殺しは、計画進行中の失敗という形で、誰にも気づかれることはなかった。もちろん、同僚であった君のお兄さんにもね。僕は、そのころからΣ計画発案者のお兄さんのことが怖くなっていてね。お兄さんが何かを発案するたび、僕はお兄さんの邪魔ばかりしてしまったよ。計画書を盗んだり、実験器具を破壊したりさ」
 手紙は、過去の懺悔に満ちていた。しだいに研究所での権威を手にしていった兄貴への羨望の記載も、随所に見受けられた。
「しかしね。まさか、これら洗いざらいが、たった数日で、君のような少女に悟られてしまうとはね」
 そこで妹は朗読から顔あげ、私を涙ながらに見つめてきた。
「わたし、まちがってたかな。まちがいを指摘して、これからのことを一緒に考えて、研究所に入る前の仲のいい二人に戻ってほしかっただけなんだけど」
「いや、間違ってはいないよ。それが証拠に、その丸眼鏡、なんだろう?」
「うん……」
 妹は、遺書に目を落とし、涙を落として朗読する。
「僕は、完全に自分を見つめ直すことができた。君に襲いかかった日もあった、君を殺しかけた日もあった――しかし君は、いつでも真剣に、僕に相対していた。それから、君にあうたびに、君の偉大さを知っていったよ。それとは逆に、僕の矮小さを知っていったよ。今では、本当に申し訳なく思っている。君の言う通りだ。お兄さんは僕の嫌がらせに気づいていたのだろう。だからこそ、職場には来なくなり、自宅に引きこもった。全部、僕のせいなんだ。僕はやっと気づかされたよ。そして、君のような人に、やっと気づいてもらえたよ。僕は結局、お兄さんを苦しめることで生き甲斐を得ていたんだと」
 私は妹に背を向け、冷蔵庫へと向かった。そろそろ夜の十時。兄貴が帰ってくる時間である。昨日の残り物から、軽い晩飯を作っておく必要がある。
「大学時代、僕はお兄さんの丸眼鏡を壊してしまったことがあってね。確か僕の家で、二人で論文を徹夜で作成していて、僕がごろりと畳のに上横になったときに、置いてあった君のお兄さんの眼鏡を壊したのだったかな」妹の声は震えていて、そしてかすれていて、もう声になってはいない。「できれば僕は、お兄さんのものを壊すのを、そのときからやり直したいと思っている。だから、新しい丸眼鏡を置いておくから、それをお兄さんに渡してくれないか。いや、お兄さんに少し見せてくれればそれでいい。お兄さんが気づかなければ、それはそれでよいし、もし気づいてもらえて、この反省の気持ちを少しでも汲み取ってもらえたなら、僕も自殺しがいがあるってものだ」
 妹はすすり泣くと、私の背中に抱きついてきた。
 わたしはまな板を取り出し、包丁を手にするとタマネギをきざみだす。
 非常に、目にしみた。
 それは当然の報いのように思えた。
 だったら、最初からタマネギを用意なんてしなければよかったのだ。
 たとえ偶然にも目の前にタマネギが用意されていたとしても、それを刻まなければよかったのだ。
 そのように思った。
 

 ○


 兄貴の紹介をしよう。
 とある朝、私は寝ぼけ眼でリビングへ向かい、妹が料理したエッグサンドを頬張りむしゃむしゃやっていた。
 妹と二人、さわやかな朝である。酸味の効いたオレンジジュースが心地よい。
「うまい」
 私は思わずつぶやいた。
「小お兄ちゃんにそう云われるのははうれしいけど」妹はエッグサンドを頬張る。「大お兄ちゃん、また朝ごはん抜きなのかな……」
 妹がさびしそうに私を見つめてくる。
「まあ、ほっとけ、兄貴のことなんて」
「あ! ひどい! そんなこと云ったら大お兄ちゃんがかわいそうでしょ!」
 妹は勢いよく立ち上がる。
 そして「ふん! ふん!」と怒りの息遣いをしながら、ハムエッグを頬張ろうと大口を開けている私の右腕をむんずとつかみ、引っ張り始めた。
「食べてる場合じゃありません! 大お兄ちゃんも一緒にたべないとダメなの!」
「放っておけばよいと云っているのに」
「いーから呼びに行きますよ!」
 ぐぐぐと右腕を引っ張られ、私の体は椅子から転げ落ち、さらには床をひきずられる。
 私は無抵抗に、兄貴の部屋の前まで引きずられていった。
 兄貴の部屋の前に来ると、妹は扉をノックし始めた。
「大お兄ちゃん! ごはんできてるよ! ハムエッグ作ったんだからね! 今日は出てきて一緒にごはん食べよ! 大お兄ちゃんが食べてくれるまで、わたしも小お兄ちゃんもごはん食べないよ!」 
 妹よ、私も食べないなんてこと、おまえが勝手に決めるのかい?
「あー、そう、そうね」と扉の向こうから兄の声。「弟と妹も、俺と一緒に食事をとらないということだね。うれしいね。一緒に食事抜きでがんばろうね」
「……兄貴」
 兄貴は自分への鼓舞と受け取ったらしい。
「か、勘違いしないでくださいねお兄ちゃん! そんなつもりで云ったんじゃありませんからね!」
 いや、そんなつもりで云ってもらったらそりゃ困るだろう。私も困る。ツンデレテンプレの口調で云われると真意を読みとれず紛らわしい。
「こら!」妹は扉を激しくノックし、ドアノブをガチャガチャと回し始める。「いいかげん出てきなさい! また家出しますよ!」
 ――と。
 ガチャリ。
 扉が開いた。
「あ、鍵かかっていませんでした」
 妹はそう云うと、ドアノブを手前へ引き始める。
「あ、あ、あ、あ! あ! ストップストップ、研究内容見られちゃ困るんだけどね!」
 兄貴の声のボリュームが上がった。続いて、こちらへ走り出す足音。
「ストーップだってば!」と兄貴。
「遅いです! 大お兄ちゃん!」と妹。
 そろそろいいかなと、私は冷めた態度で階段を下ろうとしたが、しかし妹が扉をはぎ取るようにして開くと、
「み、見るな……」
 意気消沈して畳に膝をつき、両手をつく兄貴と、
「な、なんですかこれ、大おにいちゃん……」
 ドアノブをつかんだまま、へたりこむ妹。顔面蒼白である。口があんぐりと開けられている。
 あ。
 いや、気づけば私も顔面蒼白、血の気が引いていた。
 兄貴の部屋の中に、上半身は下着姿にして下半身は高校のスカートと黒のニーソックスをはいた妹にそっくりな少女が横になっていたのだから。
 右手に掴んでいた箸が、私の手をすり抜けるようにを床に落ちていった。

   
   ○

   
 さきほどの記述から、兄貴の部屋にやってきた妹と、兄貴の部屋の中で横になっていた少女と、二人の妹がいるような記載となっているが、正確にはそうではない。
 それは兄貴と私の次のやりとりでわかったことだ。
「兄貴、これ……」私は感慨深く見下ろす。「何だよ」
 私の背後では妹が後ずさり、蛙座りをして天井を惚けている。かなりの精神ショックであったらしい。
 兄貴はあぐらをかいて座ると、ため息をついた。
「この子もまた、妹……なんだけどね」
「いや、妹は一人のはずだろう」
「ああ、そうだった。でももう、そうじゃなくなったよね」
「おい、兄貴。私の目を見て話せ」私は足下の少女を指さす「これはなんだ」
 『これは誰だ』ではなく『これはなんだ』。兄貴のことだから予想したうえでの質問である。
 兄貴は私に視線を合わせる。と思ったら逸らし、また合わせるを繰り返しながら、
「あー、俺はな。知ってるだろ弟よ。妹大好きなんだ」
「ああ、知ってる」
「大好きだとさ、大好きな人とは直接話せないよね? 嫌われるの怖いジャン?」
「ジャン、ではない。そんなしゃべりかたしてないだろいつもは」
「しかもね、顔を合わすのも最近じゃ怖いときてね」兄貴は顔を背ける。「妹、成長してきちゃっててドキドキしちゃってね」
「云っていることがキモイのだが」
「でも、やっぱり兄としては妹と話をしたいわけ。顔を合わせていたいわけ」
「はあ? で? この横になっている女の子は何だと? 妹にそっくりなわけだけれど」
「弟よ」兄貴は生物学の専門書が並べられた本棚の前に立つ。「俺のこれまでの研究成果から、そのような質問をされるまでもなく、俺が何をしたのか大方予想がついているのではないか? そんなに妹が好きだからこそ、そして顔合わせて話をしたいからこそ、こうして作ったのだ」
「何を?」
「妹のクローンを。云わせるな恥ずかしい」
「……」私は兄貴を睨む。「死ね! その通り、本当に恥ずかしい人間だよ私の兄貴は!」
 感情に任せて床を踏みつけ両拳を握りしめ、怒りと気恥ずかしさのあまり視界が朦朧となった。熱気と爆発する情念が胸の内をかき回している。
「しかも、こんなふうに騒いでいても、この少女は目を覚ます気配もないではないか。兄貴がいいように気絶させたのだろう。研究上、生物を実験器具のように考えているかもしれないが、この少女は、元になる遺伝子が妹であるということだけで、真っ当な人間の一人だ。アンドロイドとかラブドールとかそういった類ではない」
「あ、そっか。普通に人間でした」兄貴はペロリと舌を出して、右手を後頭部に回す。
「その反応。兄貴の感覚はおかしい」
「でもね、これも立派な研究なんだよね」兄貴はネクタイを締め直すしぐさをする。「俺のやる気を出すために妹の遺伝子を使わせてもらったってだけで」
「やる気を出すとか、その程度のために作られるべきものではない」
「まあ、確かに。本来はIPS細胞の成長を記録する研究なんだけど、成長見守り続けすぎてしまって、ここまで成長させてしまってね」
「……」
 言葉が出ない。
 朝顔の観察日記ではないのだぞ。
「まあ、もちろん一年で十年分細胞が成長するようにしているから、観察期間は今日を含めてちょうど一年と半年。よく頑張ったよね俺はね」
 いや、この状況下において自分をほめるのかよ。
 そのとき背後で、何か堅いものが床に打ちつけられる音がした。
 振り返ると、妹が前のめりに倒れており、額と床が接していた。
   いわゆる、ばたんきゅーである。
「おや、妹が気を失ってしまったようだね。ちょうどいい。代わりといってはなんだが、このクローン少女――小妹がそろそろ目を覚ます時間のはずだよ。なに、不安がる必要はないからね。培養液で育てている間は、きちんと妹の過去の情報を映像化した記録、俺と弟と妹の数々の思い出、妹の好きな音楽、といったありとあらゆるものを記憶させてある。この小妹は、遺伝子レベルでも育った環境でも、俺たちの妹と変わりがないことになる」
「……」
 であるとするなら。
 それは近いうちに、兄貴はこの小妹にも気恥ずかしくて口がきけないようになるのではないか?
 振り出しに戻るのではないか……。
「俺は小妹と仲良くなって、安穏な生活をおくるとするからね。もちろん、本来の妹は高嶺の花としていつも尊んでいるからね」
 まだ一人の人間としてではなく、アンドロイドとか、そういった自分の都合のいいものだと勘違いしているらしい。彼女だって年をとるだろう。戸籍上の話とか、食費や学校、保険への加入、将来の就職先や老後はどうやって生活していくのだろうか。生活については、本来の妹と私に任せっきりの兄貴にとって、およそ思考できるものではないのであろう。
「兄貴、私たちはどうしたらよいのか」
「そんなこと云わずに見てみようよ。そろそろ起きるころだからね」
 目眩を覚えて私がその場にへたりこむと同時、私の妹と同様に均整のとれた小顔を持つ小妹がむくりと上体を起こして、私の目と鼻との先で開口した。
 そして、しゃべりだした。
「やあやあ、我らが変態兄貴たちよ。よくもまあ恥ずかしげもなく、自分たちの妹の遺伝子からわたしを作り上げなさったものだ。思い起こすことは一年と半年前、わたしは培養液に放り込まれた。無論そのときに意識はない。しかし今改めて振り返ると、当時の様子からこれまでの境遇まで、余すことなく思い出すことができる。人類が進化を遂げる課程の夢――単細胞生物から魚、魚から両生類・は虫類・ほ乳類と進化を遂げてきた夢――を見終わったと思ったら、次に見たのはとある少女の成長過程の夢。濁った羊水から素手で取り出され、白衣のものたちに育てられ、兄・弟と共にすくすくと育っていく夢。その成長過程の夢はとても希望に溢れ有意義であった。わたしは、わたし本人がこの成長過程の体験者であると錯覚し、日々を楽しんでいた。それはなんと至福であったことだろう。わたしはきっと、天真爛漫に笑っていたことだろう。しかしそんな中、培養液を通じて入る周囲の音声がわたしを蝕んだ。音声によれば、なんでも、ほんのヒトカケラの遺伝子から万能細胞をつくり、その万能細胞から一人の人間を作り出す研究が行われているらしかった。わたしの周囲の者は、その研究課程を毎日気にしているらしかった。その研究対象は、培養液に浸かっているらしかった。その培養液の中の少女は、別人の記憶を見せられているらしかった。その研究対象は、彼ら研究者たちの目の前にいるらしかった。……わたしはそこで思った。周囲の音声は何かと。そして、彼らの云う培養液の少女とは、わたし自身ではないかと! ……わたしはしばらくして視力を手に入れた。刮目して見た。培養液の向こうには、波打ついくつもの顔があった。無論、それがわたしの最初に目にしたものであるから、本来、顔はあんなに歪んでいるものでないことは、はじめはわからなかった。培養液越しに周囲を見るとそう見えてしまうのである。だから、ハハハ、お兄ちゃんたちよ、わたしは今の視界の方が不気味で仕方がない。すぐにでも周囲の物と者を歪めないと見ていられない。それにもまして、わたしは単に研究対象として、そこで気絶しているオリジナルのクローンとして作られただけであるのだから、もうこの現実を見ていられない」
 小妹は、そういって私の後頭部に右手を回すと唇を近づけてきた。
 もちろんそれはキスを迫っているのではなく、彼女の額が私の顔面に迫っていたのである。
 小妹に頭突きをキメられ、瞬間、私の鼻腔の奥が発熱し、烈火な痛みとともに目頭から涙が溢れ出た。反射的に鼻を手のひらで押さえてるが、見ると、手のひらが鼻血で染まっている。
 しかし私は、鼻腔の痛みよりも、胸の痛みのほうが痛烈であった。非常に罪悪感をおぼえる。嘔吐感がこみあげ、大義名分もなく一人の人間を作り出してしまった兄貴の罪を、胃液とともに吐き出す。
 けれど吐ききれはしない。
「ああ、こんなつもりではなかったんだけどね」
 兄貴はそう云うと、小妹の背後から腕を回し、彼女の首を締めあげた。畑の大根を引き抜くように上方へ締め、上げる。
「兄貴、何をやっている」
「これは失敗作だからね、処分しないと。遺伝子も体のつくりも妹のコピーそのものだから非力なものだよ、心配いらないからね。戸籍も何もないから、ここで死んだところで、法律的には生まれてもいないし死にもしないよ、なかったことになるんだね」
 この兄貴、あまりにも鬼畜だ。
「やめろ兄貴」
 私は小娘の正面に回された兄貴の腕をつかみ、ほどこうと試みる。
「なに、研究の進歩に犠牲はつきものだ」
「……」
 私は、さらに力を込めて腕をほどこうとしながら、
「その言葉に偽りはないだろうな?」
「もちろん、偽りはないね。俺はそのようにいつも考えて研究している」
「わかった。だったら少し、腕をほどいてほしい」
「そんなことをしたら、また弟がおそわれるぞ」
 『弟が』か。兄貴は自分と妹はおそわれないと考えているらしい。まあ、そうだろう。小妹が刃向かったところで兄貴の強さにはかなわないし、記憶を共有しているオリジナルである妹を襲うことはないのだろう。そうなると幾分、私が一番ねらわれやすいとふんだのだろう。
「いや、大丈夫」私は小妹の顔をのぞきこむ。「小妹のほうも考えてほしい。今、私たちをどうにかしても、それは一時的に過ぎず、きみの居場所はなくなってしまう」
 小妹が私を睨みつける。
「無論、このまま研究物として過ごしていくのも望んではいないのだろう。だったら、私はきみに、もっと有益な人生を歩めるようとりはからおうと思う」
「それは何だ」小妹がかすれた声で応答する。
「私たちへの復讐の日々だ」
 人を殺してはいけない。それを認めれば、私は殺されることを認めたことになる。
 同様に、人を作り出してはいけない。それを認めれば、私は、私自身のクローンを作り出すことを認めてしまう。
 そう。
 人を作り出してはいけなかったのだ。
 私の兄貴は、罪を犯したのだ。
「さきほど兄貴の云った言葉、『研究の進歩のために犠牲はつきもの』という言葉、その通り実践しよう。つまりきみは兄貴から見ればこれからも研究対象であるのだが、きみを研究するには、それなりの代償を払わせる。代償というからには、きみの研究の価値がわからないと等価である代わりとなるものを用意できない。ただきみの場合、研究価値がわかるのは研究結果を見てからの判断になる。なにしろ君自身が兄貴を含めた研究者にとって初めての存在であるがゆえ、きみは我々にとってブラックボックスであるからだ。ちょうど業界用語で云うところのブラックボックステストがきみには最適なのだ。よって、きみの研究をするにあたり、代償を用意するために、まずは兄貴の体を担保とする。そうして研究成果の換算費用に見合った兄貴の体の部位を、君のすきなようにさせてあげよう。これこそまさに、『研究の進歩のために犠牲はつきもの』だ」
「なるほどね。さすが弟だ。要するに小妹を研究するために俺自身の小指を切り落とすとか、そういうことだな。いいよ」
 兄貴は小妹の首に回した腕をほどいた。
 小妹はせきこみながら
「まあ、確かに今どうにかしたところで、わたしはこれからすることもない。研究対象として生まれてきたのだから、それを否定するには死ぬしかない。しかしそれは望んではいない。死にたくはないからだ。それに、絶えず憤怒が沸き上がってはくるが、同時に、絶えず至福の安らかな幸福が胸をなでる。おそらくは妹本来の感情が、わたしの中でも育てられたのだろう。さきほど小お兄ちゃんに頭突きをかました瞬間にも、胸を抉られたように心が苦しくなった――というか遺伝子レベルで全身が苦しんだよ」小妹はブラジャー越しに左胸を押さえる。「こんな思いをするなら、わたしの心が傷つかないほどの一瞬で、究極な罰を、お兄ちゃんたちに日々食らわしていきたい」
「……」壮絶な決意表明だがいたしかたない。私は小妹の肩に手を置く。
「そうだろう。それでいい。私たちは一生償うつもりだ」
 まずは兄貴だけにお願いしたいところではあるが。
「そうだね、償うよ」と兄貴。
「ではさっそく代償をいただくとしよう」小妹は立ち上がって腰に手をあてる「わたしの研究成果は、現状どうだ?」
「うん」兄貴は小妹を見下ろして腕を組む。「そうだね、IPS細胞から一人の人間をつくりだしたのは我ながらよくやったと思うね。これで死に際の人が、アメーバみたいに自分の分身をつくることができるようにならなくもないね」兄貴は小妹を見てため息をつく。「分身の意識はオリジナルと同レベルじゃないみたいだけど」
「まあ、そうであるるが、じゃあ、最初だし、代償はわたしの裁量でいこう」
「いいよ」
「右足の骨一本を折らしてもらう」
「わかった」
 ……。
 ずいぶんと淡々とすすんでいるが、いいのだろうか。私はてっきり、さっきの頭突きのようなものを最初受けるものだと考えていたが。
「まあ……その前に」妹は立ち上がると兄貴へ向きなおる。「一発ビンタしないと気がすまない――とわたしの遺伝子レベルで怒りがこみあげている」
 まあ、そうなんだろう。足の骨を一本折るという手段よりも、ビンタをするほうが怒りを表現するのに適しているように思える。
 そして小妹は兄貴の前で右手を振りかぶると
「妹の体で遊ぶな! 大お兄ちゃんのエッチ!」
 ビンタの音が鳴り響いた。
「ふぃ〜、なんか知らんがすっきりしたー」小妹は額を拭うと、張り飛ばされてうつ伏せになった兄貴の腰にまたがる。「ほれ、小お兄ちゃんも、足の骨折るの手伝ってー」
 小妹が私を振り返り手招きをする。
「しかたがないな」
 私は兄貴にまたがる小妹の背後に近づき、膝をついた。兄貴の太股裏をなでる。
 骨は太く丈夫そうだ。
「よーし」小妹は舌なめずりして右腕をぶるんぶるん回して気合いを入れると、自分の尻で兄貴の太股裏を固定し、兄貴の膝を両手で持ち上げにかかった。
 兄貴の太股の骨は一気にゴキリと折れたわけではなかった。
 よくしなる竹がなかなか折れないように、兄貴の太股の骨も、力む小妹と私の腕力に抵抗しながらも、じわじわとしなりが厳しくなると、最後には鈍い音をたてて折れた。
 途中、目を覚まして顔をあげた妹がこちらを見つめ、
「……くきゅ」
 しかしまた気を失い、額を床に打ちつけたのは印象的であった。


 ○


 外が曇りがちである。さきほどまでは青空が見え、太陽の光によって澄み渡って見えていたが、灰色の分厚い雲が集まりだし、空はだんだんと暗くなってきている。
「なかなか旨い昼飯であったな。シーシー」
 小妹がつまようじで歯の隙間をかきだしている。たまに歯の隙間を通っていく空気がたてるシーシーという音は、唾液の音も混じっており、なんとも下品である。
「シーシー。やはり、小妹にはわかるか、この味が。シーシー」
 私もシーシーやりながら柔和に応答した。
「ところで小お兄ちゃんよ」と小妹。
「なんだ?」私はテーブルの上の嘔吐物――でひっくりかえったホットケーキ、巻き散らかされたデスソースに視線を送る。「小妹よ」
「わたしと小お兄ちゃんの口調は似ていないかね?」
「まあ、似ているな」
「うむ。私はそれを気にせずにはいられない」
「気にすることはない」私は背後のキッチンから聞こえてくる妹の嘔吐する邪怨に満ちた苦しみの声に耳をすます。「同じ地域に住む人間同士、口調が似てくるものだ。人はこれを方言という」
「これが方言のわけがないであろう。それはとんでもない方便だ。どうにも私の記憶の層に小お兄ちゃんが多く埋まっているからなのか、よく小お兄ちゃんの夢を見る。思うには、私の脳は小お兄ちゃんの影響を受けているのではないだろうか。言語中枢を司る部分を含めて」
「例えば私の映像を多く見せられていたのであれば、あるいはそれもありえるのかもしれんがな。まあ、いずれにしても気にすることはない。私たちは、お前と家族の一員として過ごしていくことに決めたのだ。お前がここに居たいと思う限り」
「そりゃーまだまだここに居る――にゃん」と小妹。
「……にゃん? いきなり口調を変えるのだな」私はため息をつき、つまようじを目の前でもてあそぶ。「端から聞くと、私と小妹以外の第三者が発言したように聞こえるぞ」
「いや、せっかくだお。ここで自分なりの口調を決めるお」
「いや、な」私は、つまようじの先を小妹に向ける。「その語尾はやめたほうがよい。友達が離れていくぞ」
「おまたひどいことを言ってのける☆」
「今度は頭に『お』をつけることで、お前のお股がしゃべっているかのような表現になっているし、さらに語尾には☆がついていることで、もう当初のキャラクターを小妹に見いだせないのだが」
 私はもてあそんでいたつまようじを小妹の二の腕に向けて、フェイシングのごとく突く。ツッコミとはこういうやり方でよいのだろうか。
「#だって個性がほしい」
「悲しくさせられるコメント文だな」
 小妹もフェイシングのようにつまようじで私の攻撃を受け止めて
「生まれてきたからには尊厳を見いだしたくなるのが人間ではないか.EXE」
「あー、そのEXEファイルは絶対ウィルスであろう、実行しみたくもあるがな」
「――ダン!」
「あ、あーびっくりした。その効果音は心臓に悪いからやめてくれるとありがたい」
「……」
「……」
「……」小妹は体制を前のめりにして、私へ近づき「……」
 しかし離れていった。
「小妹よ、そうやって効果音を言うのかと思いきや言わないのも、心臓にわるいからやめてくれるとありがたい」
「……」
「……」
「……」
「……どうした?」
「だって、小お兄ちゃん反応冷たいんだもん!」
 小妹がつまようじで私の二の腕を刺しにきた。
「くっ」
 私も負けじと、クロスカウンターのように刺し返す。
 二の腕から小さく鋭い痛みが走り、私は思わずのけぞった。
 そこへ、後方から騒がしい足音がして、
「小お兄ちゃん! 九論ちゃん!」妹は右手にもった水入りのグラスをビールCMのようにうまそうに飲みほし「ぷはー。つまようじで遊ぶなんて行儀悪いですよ!」
 どうやら、蜂蜜とデスソースのホットケーキから立ち直れたらしい妹は、腰に手をあてて私たちを睥睨する。
「働く者は食うべからずです! 後かたづけしたらお仕事です!」
 言うなり、テーブルの上のひっくり返ったホットケーキや自分の嘔吐したものをエプロンのポケットから取り出した布巾で拭き始めた。
 よくよく伺えば、少しにやけている妹の顔。
 私と小妹は、未だお互いにのけぞった体制のまま視線を交わせ、お互いに小首をかしげた。
 無論、以降は、小妹は九論と呼ばれるようになった。また、九論のしゃべりかた、方言――方便はこれにて確定した。
「だって、楽しかったんだもん!」
 九論は妹を見上げて笑った。

  
   ○

  
 リビングを抜けて書斎へ向かった。
 デスクの前に腰掛けると、デスクの上の茶封筒が目に入った。
 ーー仕事の依頼か。
 私はそう思うと、先ほどのつまようじの痛みを二の腕に感じながら、茶封筒を手にし、中身を取り出した。
 折り畳まれた紙をデスクの上に広げる。
 それには以下のように記載されていた。

 数日中に、この屋敷を爆破する。


 ○


 と、そこで、書斎に九論が飛び込んできた。
「小お兄ちゃん! 友達を助けてあげてくれないか!」
 茶封筒に予告状をしまい、私は背後を振り返る。
 そこには、九論と――もう一人少女がいた。
 その少女は九論に力づくで連れられてきたのであろう――息は切れ切れであり、前かがみになって胸を右掌で抑え、両目を瞑ってしまっている。
「九論よ、どうした」
 私は部屋の片隅の椅子へ向かい問うた。
「どうしたもないんだもん」九論はさっそく『だもん』口調となる。「この子、友達、公園で仲良くなったの、家に予告状が来て泣いてたん――」
 九論の視線が私のデスクの上に流れる。
「あ、あれ、予告状の入った茶封筒!」
 私は椅子を二つ両手に持つと、九論と少女の前に置いた。
「まあ、座りたまえ。見れば友達とやらも息を切らしているではないか」
「すまないな、小お兄ちゃん」
 九論は軽く深呼吸をして、おとなしく椅子へ腰かけた。
「あ、の。失礼します」少女も私を上目に伺いつつ座る。「あの。わたしは柴等子(しばらこ)っていいまふ」
 かんだ。
 まあ、気づかなかったことにして。
「よろしく。私はこういう者だ」
 私は名刺を柴等子に差し出す。
「ああ、探偵さんなんですね」柴等子は名刺を受取ると、その文面と私の顔面を見比べる。「よろしくお願いします」
 私は再びデスクに向かい、デスクに寄り掛かるように腰をかけ、正面の九論と柴等子を見据えた。
 座高を見るに、九論と柴等子では柴等子のほうが低い。顔もいくらか幼く見える。
「夜、さみしいから、よく公園に行ってたわけ。そうしたら、いつも等子ちゃん居たの。わたしもまだ家族しか話したことないし、この際だからってことで話かけて、意外と息が合って、それからはよく話をしてたんだもん」
「『だもん』というのは普通そういう使用をしないのだが、それは置いておくとして、なかなかやるではないか九論」
「まあ、そんなのはよくて。とにかく話を聞いてあげてくれないか」
「よかろう」
 私は九論の対人関係に感心しつつ、隣に座る柴等子を見る。
「話をしてはくれないか」
「はい……」柴等子は私を見上げる。「そ、の。その、その前にお礼を言わせてください。私、両親が仕事で夜帰ってこないとき、よく公園で独りで遊んでたんですけど、最近は九論さんと楽しくお話させていただいてますから」
「いやいやー。いやいやいやー」とにやける九論。
「それで、お話の方なんですけど、予告状の」柴等子の声が暗くなる。「昨日の夜、部活を終えて帰宅したら、その予告状が郵便受けに入れられていたんです。私、もう恐ろしくなって……家にも入らず公園に走って逃げてきちゃいました。そこには九論さんがいつものように砂場でDNAの螺旋構造を作って、それを自ら踏みつける遊びをしていて」
「……」
 どういう遊びをしているんだ。むしろ螺旋構造を砂で作ったのがすごい。
 そのように言ってやりたかったが、柴等子の声の暗さは恐怖心をあらわしており、ここで茶化すような言動を述べるほどに私は欠陥品ではない。堪え、沈黙する。
「そして崩れた螺旋構造の横に矢印を書いて、そこにいつものように『小お兄ちゃんのカスDNAの数年後』と大きく書いて」
「……」
「かと思うと『カス』に縦線を引いて横に『クソ』って書いて」
「…………」
「かと思うと『クソ』に縦線を引いて横に『シスコン』って書いて」
「………………」
「かと思うと『シスコン』に縦線を引いて横に『童貞』って書いて」
「……………………」
「かと思うと」
「ああ! そこはもうよいから! 次! 次!」
「ひ……」柴等子はビクリと反応する。「ごめんなさい」
「あ、いや、柴等子さんは悪くはない。すべては虚構を書き記す九論が悪いのだ。私も声を荒げてしまって申し訳ない。で、その後はどうしたのですかな?」
「はい」柴等子は息を大きく吸って大きく吐く。「すーはー。その後、予告状が届いたこと、予告状の内容を九論さんにお伝えすると、九論さんが私の手を引いてここに」
「なるほど」
 私は、顎の下に軽く右手をあてた。
 どうにも物騒な話だ。まさか、私の住まうこの町で、例の爆弾魔が現れようとは。
 私はズボンの左ポケットからスマートフォンを取り出し、ニュースアイコンをタッチした。
 淡い光を放つその画面には、やはり、爆弾魔関連のニュースが複数上がっている。
 一般住宅、企業、公共施設、場所を問わず人の居るところに予告状を出し、その予告通りに爆破を行う。そういった説明書きが書かれている。
 記事には申し訳なさそうに記者団に頭を下げる警視庁面々の写真が掲載されている。
 この事件、予告された場所を調べればすぐに見つかるわけではないのである。シャーペンの消しゴムが爆弾であったり、調査にあたる警察や爆弾処理班の持ち物に爆弾が仕掛けられていたという意表を突くことさえある。このため、これまでの爆弾はひとつも見つけられることはなく、予告通りに爆弾は爆発し、建造物・施設を破壊している。
「これはダメだな。悪いのだが、ほぼ百パーセントで破壊を防ぐ手立てはない」
「そんな……」
 萎れた百合の花のように落胆をする柴等子。
「小お兄ちゃん、それはない、探偵っていうのだからまずは連れてきたのだもんに」
「もう、その言葉づかいに何か言うつもりもないが、九論よ、その通り私は探偵だ。浮気調査する者であるし失踪者を探す者であるし情報を傍受する者である。一方、警察は爆弾魔といった凶悪犯を捕まえる者であるし、爆弾処理班は爆弾を無機能化せしめる者である。つまり、私の仕事ではないのだよ」
「……まあ、そうなるのか」
「それに九論、そして柴等子さん。今までに数十件発生した爆弾魔事件、ひとつも爆弾発見に至っていない。今回に限って爆弾の素人たる私が発見しようとするのは、ほとんど不可能といてよい」
 私はデスクから離れ姿勢を正す。見下ろせばつまらなそうに口を尖らせる九論と、そんな九論と私とに柴等子は目配せをしている。
「申し訳ないな。件の爆弾魔、爆弾をしかけられてはもうどうしようもないのだ。まずは警察に通報しよう。代わりと言ってはなんだが、事が収まるまでは、我が家に居てもらって構わない。もう、両親は長い間帰ってきていないのであろう?」
「え?」と柴等子は体を強張らせる。
「やっぱりそうなのか」と九論。
「うむ」私は首肯する。「柴等子さんが予告状を見つけた時点から今の今まで、これから帰宅してくるであろう両親に連絡をとろうとする挙動を見せようとしないのが気になっていてね。両親は夜仕事をしているとはいっても、さすがに帰ってはくるだろう、爆発予定の家に。どうして柴等子さんはすぐにでも両親に伝えようとしないのだろうか? 『爆弾魔の予告状が届けられていて、それによれば数日中に家が爆破される』と」
「…………」
 柴等子は俯いて沈黙する。
   沈黙は首肯と同義に受け取ってよいだろう。
「柴等子さん。これから警察に通報する。しばらくは我が家に居てくれたまえ。我が家は私と妹以外は変わり者で、特に兄貴には近寄らないようにしてほしい。操を守れるかどうか非常に不安だ」
「……」柴等子はゆっくりと顔を上げる。「わかりました。これからよろしくお願いします」
「うむ。よろしくたのむ」
「で、でもです」柴等子は突然立ち上がる。「爆発は……」
 突然の挙動に私は心拍数を若干高まらせ、柴等子を落ち着かせるようにゆっくりと発声し、
「なんだね?」
「爆発は!」柴等子は決意を私に表明する。「爆発はさせてあげてください!」
「なに?」
「あんな家いりません! なくなってもらって構いません! それにもしかしたら……」
「ふむ」
 もしかしたら家を失った娘を心配して、両親が返ってきてくれるかもしれない、か。
 私は九論を見下ろす。
 九論は神妙に首肯した。
「よいだろう」私もまた決意する。「柴等子さんの家の周辺に何もないことが確認できれば、それは爆発の被害は柴等子さんの家だけに限られることになる。そのことが確認できれば、警察に通報することなく、予告通り爆破させてやろう。予告状はたちの悪いいたずらだと私が判断したことにしてな」
 こうして、しばらく柴等子さんを我が家に迎えいれることにした。
 この後にわかったことだが、柴等子の家はたいそう大きく、周辺の家々とは十分に距離がとられていた。
   
   
   ○


 それから数十日がたった。兄貴は研究所にこもりっきり、帰宅しても自室に直行しており、我が家に人間が一人増えていることに気付いてなさそうであった。なんともよい兄貴である。このまま研究で獲得した金銭だけが自動的に口座に振り込まれて、兄貴自身はどこかに行ってくれれば我が家は安泰である。
 もうすぐ爆発日である。爆発日といっても、何かが爆発的に売れるといった景気のよい話ではない。文字通り、爆弾が爆発する日なのである。
 しかし、このまま何もせず、爆発を待っていてよいものだろうか。爆発日が決まっているのであれば、それまでに爆発物を探し出し、どういったふうな爆弾であるかを拝見し、今後の爆弾物発見のために少しでも役立てるべき――。
 ――と。
「ただいまー。柴等子は今帰りましたー」と扉が閉まる音と同時に、柴等子の声が一階から私の居る二階の書斎へ響いてくる。
「おっかえり柴等子ぉ。もう十七時だよー。ずっと待ってたよー。独りで寂しかったんだもん」と九論の声。
「もう、私も居たでしょ、九論ちゃん」と、これは妹の声。
「オリジナル妹は何で居たんだよむしろ。学校は行かなくていいのかってずっと実は思ってたんだもん」
「あ、今日はね。学校の創立記念日でお休みだったの。お菓子の本をこの前の日曜日に小お兄ちゃんと買いに行ったから、今日はそのお菓子作りの練」と妹が言い終わる前に、
「柴等子ぉ。なにして遊ぶー?」と九論は遮る。
「そうですね。出かけましょうか。駅前にショッピングモールができてるんですよ」
「いいねいいね、行こう行こう」と九論。
「最近、九論ちゃんのわたしへの態度がひどいと思うんだけど、どう思う柴等子さん?」と妹の声は悲しそうだ。
「う、うーん……えーっと、そうですね」
「だってオリジナルはうるさいんだもん」と口を尖らせてるかのような言い方の九論。
「う、うー……」と声が消えいる妹。
「ま、まあまあ。三人で行きましょう」と柴等子。
「えー?」と九論。
「人は多い方が楽しいですよ」と柴等子。
「もーしょうがないなー」と九論。
「うー。ひどい……。最近、本当にひどいよ九論ちゃん……」と涙声の妹。
 そして、扉の閉まる音。
 無音。
 どうやら三人ともでかけてしまったようだ。
「おっと」
 私は思考を戻す。
 やはり爆弾調査はしておいたほうがよいのではないか。今後の爆弾を見つけやすくするためにも、なにか特徴をつかんでおくべきではないだろうか。
 私はこの日、爆弾魔がしかけるとすれば、どのような爆弾であるか考察にふけった。
 しかしこれは後になってわかることだが、このとき考察にふけらず、実際に行動をとっていれば、この事件を未然に防げたかもしれないと思うと、非常に悔やむ限りである。
     
     
     ○
     
     
 翌日、私を含め、九論と柴等子は、爆破対象の建造物前にやってきた。つまり、柴等子の家である。
「ここが柴等子の家かー」九論は二階建て純和風の豪邸を見上げる。「でかいな。見劣りする」
「我が家がか?」と鹿威しが奏でる音を聞きながら家を見上げる私。
「言うまでもない」
「言ってくれるな」私は九論をねめつける。「だが、その通りだ」
 私はたち止めていた足を前へ出し、前進を始めた。
 この家の中に爆弾が仕掛けられており、本日二十時には爆発するのだ。現在時刻は十時。時間にはまだ余裕があり、本日分の調査だけでも今後の調査に生かせればよいだろう。
 私はそんなふうに気楽に考慮し、豪邸へ踏み入れた。
 鍵を柴等子にあけてもらい、中に入ると、奥の方に二階へ続く階段が見えた。
「一階には柴等子の部屋があると聞いたことがある。小お兄ちゃんに見られるわけにはいかないだろう。わたしが一階を調べよう。小お兄ちゃんと柴等子は二階を調べてくれ」
 やわかったり、かたかったりして安定しない口調の九論に、しかし思うところもなく従い、
「了解した」
 私は首肯し、奥の階段へと向かった。
   
   
   ○
   
   
 螺旋状の階段を登りきると、そこは雪国だった、ということはなく、いたって一般的なフロアにたどり着いた。奥の方に廊下が続いていて、その廊下にそって部屋が用意されている。
「……」
 私は呆気にとられた。
 廊下といっても、小学校体育館の半分の幅くらいはある。
 見上げると、天井は遙か上方にあって、ガラス越しに太陽が見て取れる。本当に豪勢な屋敷なことよ。
 私は廊下(というより広大なフロア)を前進しつつ、
「これだけ広いと、爆弾を探すにも一苦労であるな」
「は、はい」柴等子は私の少し後ろに従いながら「すみません」
「いや、柴等子さんが悪いわけではないのだが」
 かなり自虐的および被虐的な人であるなと気にとめながらも、私はとりあえず一番近くの扉の前で立ち止まった。
「こ、」柴等子も私に続いて立ち止まり「この部屋からですか?」
「うむ。特に理由はないが、何か不満でもあるのだろうか?」
「い、いえ。この部屋、わたしの部屋ですので、ちょっとだけ気が引けてまして」
「ふむ、なるほど。では、気の引ける箇所を私が調べようとした場合はすぐに止めてくれたまえ。そういった箇所は柴等子さん自身に任せることとしよう」
「すみません、わがままを云って」
「いや、当然のことであろう」私はノブを回す。「では、入るぞ」
「はい」
 扉を押し開ける。
 ――と。
「小お兄ちゃん! すぐに降りてきてくれ!」
 一階から九論の叫びにも似た声が響いた。

   
   ○
   
   
 九論は一階フロアから延びた廊下の奥に隣接された薄暗い部屋の前にいた。
「どうした、九論」私は走り疲れた息づかいで九論に問いかける。「なにがあった」
 それは愚問であった。
 苦悶の表情を浮かべる九論の背後――薄暗い部屋の中、散り散りとなった人間の体が見てとれたからだ。
 私は脳内に酔狂を感じて平衡感覚を失った。気づけば私の体は後方に倒れかかっていることに気づき、咄嗟に、隣に立つ柴等子の肩を持って踏みとどまる。軽い目眩を覚え、自らの心臓の鼓動が大きく聞こえている。
 踏みとどまった先、柴等子の肩の震えが私の右手を通じて伝わってきている。
 柴等子を見る。
 柴等子は前方に転がる肉塊を見つめたまま、恐怖の表情で固まっていた。目の前に魔物でも現れたかのようである。か細い息づかいのみが聞こえ、しかし両目は恐ろしく刮目されている。
「さがっていろ」
 誰かがそう云ったかのように聞こえた。しかしその声は私自身の声であった。目前の出来事に精神が錯綜し、まるで自分自身の喉を使って発声した感触がなかったのだ。
 私は獣に食い散らかされたかのように散り散りとなった肉塊に近づく。
「これはひどい」
 おそらく元は正常な人間であったであろうその人体は、バラバラに切断されてこの部屋に放置させられていた。力付くで引き裂かれたかのように辺りの床には血しぶきの後が見て取れる。
「……」
 血しぶきの先に、斧が床に突き立ててあった。刃には黒い肉がこびり付いており、流血の後が残っている。
 斧の傍らには首が転がっている。顔は無惨にもつぶされていてどういった人物であったかはわかりかねるが、顔の小ささと輪郭、そして長い黒髪からは、生前は少女であったろうことが伺える。
「……」
 私はしばし沈黙し、しかしすぐに当たり前のことに気づく。
「警察だ!」私は後方の九論、柴等子に叫ぶ。「今更ながらに、正常な判断に至った! すぐに警察を呼んでくるのだ!」
 九論と柴等子は悲鳴にも似た返答を後方から私に返すと、すぐに表へ飛び出していった。
 彼女たちの遠ざかっていく足音を聞きながら、私は少女の顔面に近づいた。なにやら、血文字らしきものが刻まれていたのだ。
 近づいてみると、その予感は正しく、少女の顔面には次のように刻まれていた。
 『ただし爆弾を見つけたものは、このような姿となる』


   ○
   
   
 惨状を目にした私たちは警察の調査を終えると、帰宅した。
 玄関では妹が学制服のまま体操座りをしており、扉を開けるとお互い視線が交わった。
 突如にして妹の泣き顔が笑顔となり、頬につたう涙の粒を拭うことなしに、妹は感激のあまりか発声もせずに抱きついてきた。
 私の顔に触れる妹の黒髪の感触をくすぐったく感じながらしばし抱擁をしていると、どうやら妹は落ち着きを取り戻したらしく、
「テレビで見たよ、小お兄ちゃん」妹は私の耳元で囁く。「心配してた」
 私もその言葉によって本来の落ち着きをとりもどした。体全体を妹の温もりに包まれながら、私は私本来の本分を痛感した。
 つまり、私は探偵である。
 浮気を調査するものであるし失踪者を探すものであるし情報を傍受するものである。
 私は妹の抱擁をゆるやかに解くと、リビングに向かいテレビをつけた。
 ニュースキャスターは報道する。
 <本日午前十一時、峠野町のとある民家にて、少女の遺体が発見されました。遺体はバラバラに切断されており、少女の顔は判別のつかないほどに殴打されていたようです。警察の発表によりますと、死亡推定時刻は昨日の十七時から十九時、死因は肩手首と両足首の切断による出血多量死とのことです。あ、今、追加の情報が入りました。少女の顔には落書きがされており『ただし爆弾を見つけたものは、このような姿となる』と記載されていたそうです。この民家には少女が独りで暮らしていたようですが、数日前に爆弾魔による予告状が届いていたため、知人の家に避難をしていたようです。いったい、この遺体の少女は誰なのでしょうか? そして爆弾魔は今度はどこに逃げたのでしょうか? みなさん、戸締まりには注意を願います。通勤や通学の際はなるべく人目のつく通りを利用し――>
 私は右手を顎の下に添え、思考していた。このニュース報道は、私にとって意外であった。
 リビングに入ってきた九論を垣間見る。
 本当に意外である。
 本日の事件を極めて客観的に見た場合、少女を殺したのは、九論だと考えていたからだ。
 それは当然だろう。柴等子の家に行ったとき、九論は単独で一階で行動しており、私の監視下になかった。しかも死体の第一発見者である。自分で殺しておきながら第一発見者のふりをするのはよくある話だ。ニュース報道で云われたように死亡推定時刻が昨日の十七時から十九時ではなく、本日の十七時から十九時であれば、ほとんど九論が殺人犯と考えてよかったのである。
「なにか?」
 九論が私を見つめて小首をかしげる。そしてテレビに視線を移してテーブル前の椅子に腰掛けた。
 志望推定時刻を考えると、九論、柴等子、妹、彼女らはその時刻はショッピングモールに出かけておりアリバイがある。このことから、身内で犯行可能であるのは私と兄貴のみになる。兄貴はずっと部屋にこもりっきりであるから、そうなると、私が犯人かと思われるが、私自身は私が犯人でないことは知っている。
 いやいや。
 なぜ私は最初から身内を疑ってしまっているのだろうか。以上のことを考えると、やはり少女の殺人、そして爆弾魔は外部の人間と考えて間違いなさそうである。
 私も九論にならい、椅子に腰掛け、テーブルの上に肘を立て頬杖をついた。
 そう、私は探偵である。
 無能な探偵である。
 結局私などには到底解決不可能なのだ。
 私はふてくされ、右斜め後方に視線を送る。
 台所の前で、妹がいそいそとエプロンを着けていた。
「明日からまた警察の取り調べで忙しいだろうけど」妹の声はいつもの明るい声で云う。「気を落とさずがんばろうね、小お兄ちゃんたち!」
 けなげな妹である。そして私には充分すぎるほどによくできた妹である。
「今回は爆弾が爆発するだけじゃなくて人が死んじゃったなんてとっても悲しいけど、悲しさ吹き飛ばすくらい腕によりをかけますから!」
「……」
 さらに私の妹は、このように事件解決のヒントになる発言を、いとも簡単に云ってのけるのだから、本当に、無能な私にとっては十二分な妹なのである。
 私はすぐに現場に戻り、警察関係者にしつこく確認をした。
 すると重要なことに、遺体のあった部屋には、血塗れの手錠が三つあったということだった。手錠は部屋の隅にあり、部屋の壁につけられた鉄パイプの手すりにかけられていたそうだ。
 私はその事実を告げた警官にお礼を云うとすぐにまた自宅へ引き返し、兄貴の部屋へ突入した。
「兄貴、事件が発生した」
「あ、急に入ってこないでよね」兄貴は書類が山積みの机の前で頭をかきむしっている。「今、集中してるんだからね」
「いや、研究どころではなくて」
「知ってるよ」兄貴は机上の書類をなめるように眺めながら「さっきから俺のアカウントにメールが届いてるからね。たぶん遺体の遺伝子調査の依頼だろうなあ。あの状況じゃ、あとは遺伝子でしか誰なのかわからないだろうしね」
「そうか。すまないが兄貴、すぐにでも調査を開始してくれないだろうか。この件には家で預かっている柴等子さんっていう女の子が関わっていて」
「ああ、調査なら終わってるよ」兄貴は後方に立つ私に向けて人差し指と親指で輪をつくり「バッチリおっけい。この遺伝子なら見たことがあるよ、研究所でね。たしか地下でずっと研究している夫婦の子供じゃなかったかなあ」
「それは大変ではないか。その夫婦に知らせなくては」
「ああ、大丈夫、気にしなくていいからね。あの夫婦も気にしてないし。というか、わざと大きな屋敷に置いてきてるしね。なんか、頭脳が完璧じゃないから気に食わないんだって」
「……」
 どういうことだろう。あの屋敷に放っておかれているのは柴等子ではないのか?
「どういうことだ、兄貴。あの屋敷には柴等子という女の子が住んでいて、爆弾魔に殺された被害者は、屋敷に住んでいたわけではないのだが」
「だから俺の云っている通りなんだけどね。夫婦は屋敷に女の子を独り残していて、今回死んだのはその女の子」
 私は、旋律する身体への痺れに抵抗するため、しばし両目をつぶった。
 そして克目する。
 ならば私は問わなければならない。
「では、柴等子とは、いったい何者なのだ?」


 ○
   
   
 それから日々は流れ、爆弾魔は依然として予告状を送りつけては爆弾を仕掛けていった。
 しかしながら、爆弾魔の爆弾は、もう爆破されることはなかった。
 例えば、ニュースキャスターは次のように報道する。
 <本日午後十二時、東峠野町二丁目交差点のマンホール裏に、爆弾が仕掛けられていることが判明いたしました。先日の爆弾魔の予告状通りのものではありますが、今回も警察による厳格な調査によりまして、見事爆弾を回収することができました。これにより爆弾回収成功は連続七回目。少女のバラバラ遺体が発見されて以降は、爆弾魔の企みは一度も成功していないことになります。度重なる犯行により、警察の対応力も強化されたのでしょう。爆弾の回収だけではなく爆弾魔が回収されるのも時間の問題となってまいりました>
 そう、爆弾回収が成功続きとなっていたのである。
 しだいに、爆弾魔による爆破事件はなりをひそめてきた。
 爆弾の回収率が劇的に向上され、爆弾魔は、おそるるにたらないものとなったからである。
 緊迫していた町中の空気は弛緩し、一方で警察の警備体制は万全たるものであった。爆弾魔の予告状は、結果的に見れば、ただ単にふざけた紙きれが届けられるようなものとなった。予告状が届いたところで、爆弾がたちどころに警察によって回収されてしまうのであれば、それも当然であろう。
 数日、数ヶ月が経つにつれ、世間は爆弾魔のことをとりあげるのをやめ、予告状が届くことは、単なる自然現象のようにとらえられることとなった。
 今朝、我が家にも予告状が届けられていた。しかしこれもまた単なる自然現象ととらえ、私は警察に爆弾回収を依頼し、警察は見事回収に成功した。
 爆弾魔事件は、こうして自然消滅的に解決にいたったのである。
 私は数ヶ月の間、そのように考え安心していた。
 いや、安心したふりをしておいた。

   
   ○
   
   
「ただいまー」九論はまた、いつものように朗らかに帰宅する。「今帰ったもーん」
 一階からの九論の声を聞き、私は書斎を後にして一階に降りた。
「おかえりー、九論」柴等子がリビングから声をかける。
「いやー、この九論、すっかり世の中に慣れたものだ。夕暮れ時になるとお腹がすいて帰りたくなる」
「それは幼稚園児くらいの感覚だな」私はリビングに向かいながら九論へ吐き捨てる。「早く妹と同じ精神年齢になってほしいところだ」
「なんだとー」九論が玄関からリビングへやってきてテーブルをたたきつける。「すでにオリジナル以上だもん」
「ふむ」私はかまわず椅子に腰掛ける。「確かに。幼稚園児のように友人を大切にして、妹以上に冷酷ではあるな」
 九論の動きが止まる。
 後方で料理をしていた柴等子が、なにかを落とした。その何かは、私の足下まで滑り込んできた。
 どうやら包丁を落としてしまったようである。
「九論よ、友人を失うのは確かにつらい。しかし友人のために鬼になるのも、人間には必要なことなのだよ」
「なにを云うのだ小お兄ちゃん」
 九論の視線が不安げに、私の後方に向けられる。
「よかろう。では、ひとつひとつ明らかにしようではないか。今回のバラバラ殺人の事件を」
 私は背後の柴等子を意識しながらそう述べた。
「まず、もうわかっての通り、爆弾魔はすでに存在しない」
「いや、わからないな」九論は私を見下ろす。「報道の通り、今でも爆弾魔からの予告状は届いているではないか」
「それは届いているだろう。何しろ、九論、お前が送っているのだからな」
「……」九論は私の真意を探るように見つめてくる。「どういうことだ」
「どういうこともない。爆弾魔のレベルが、バラバラ事件以降、急激に下がっている。警察もさほど苦労することなく回収に成功しているではないか。まるで、事件以前と以後では、爆弾魔が別人のようではないか? 玄人から素人に入れ替わったような」
 私もまた、九論の真意を探るように見つめ返す。
「なにも証拠がないな」と九論は嘲笑する。
「では、決定的なことから述べるとしよう」私は背後に立っている柴等子にも聞こえるよう声を張り上げる。「屋敷で死んでいた遺体の遺伝子と、柴等子さんの遺伝子は、全く同一である」
 背後で柴等子が崩れ落ちる音がする。
「これは兄貴の調査結果だ、確かと云ってよい」
「……」九論は下唇をかみしめ、私から少し距離をとる。「それがなんだっていうんだもん」
「もう隠すことはないのだよ九論。すべて調べあげている。柴等子が、兄貴の研究所の地下で作られたクローンであることも。そして」
 そして。
「柴等子のオリジナルが、あの屋敷に独り取り残された爆弾魔であったことも」
 そうでないと成り立たない。
 あのバラバラ事件が成立しない。
 死亡推定時刻が事件発覚の前日であり、その時間帯は、妹と九論と柴等子でショッピングモールに行っていたというアリバイ工作が不成立となる。
「残念だよ九論。オリジナルの柴等子の死体を、お前がバラバラに解体してしまったなんて、私は未だに信じられない」
 本当に残念である。なにしろ九論の姿形、そして表情は、私の愛する妹と全く同一なのであるから。
「九論よ、なぜこんなことをした。こんなことをしても、結局のところ死体の遺伝子と柴等子が作られた研究所に関わる兄貴が居る限り、到底隠しきれる話ではなかったろうに」
 私は苦渋に満ちた九論の表情から目をそらした。もはやこれ以上は、話すこともない。
 瞬間、九論は崩れ落ち、私の脚に抱きついた。
 そしておもちゃを失った子供のように、瞳に涙を溢れさせて大声で泣きわめいた。
 無論、背後では柴等子も同様に、九論と輪唱するように泣きわめいた。

   
   ○
   
   
 後日。
 私と妹と兄貴は駅前に来ていた。
 日曜日ということもあり、大衆でにぎわっている。
 しかし一方、妹の方は消沈していた。見れば誰もが気づくであろうドンヨリとした空気をかもしだしており、表情は大層暗い。瞳にも暗さが増して、まるで輝きがない。涙が乾ききっているようにみえる。
 いや、実際、乾ききったのであろう。
 クローンという手前、警察に突き出すこともできず、兄貴の研究所の地下送りとなった九論と柴等子のことを思い出しては泣いている妹である。すでに涙の貯水率はゼロパーセントとなっているに違いない。
 ショッピングモール入り口では、二人の客室乗務員のような女性が入り口を挟むように立っており、入り口前には象の着ぐるみをきたマスコットが幼子に風船を渡している。
「残酷なものだよね」兄貴は妹の手を引いて歩きながら前方を惚けるように見ている。「俺だったら殺される方を選んだだろうにね。手首とか足首とか、自分で切る度胸ないしね」
 ああ、あの事件のことを云っているのであろう。
 爆弾魔の、あの究極の選択のことを。
「……」
 しかしどうして、オリジナルの柴等子は爆弾魔になりはてたのだろうか? あれほどまでに世間を騒がせたのだろうか?
 そしてあれほどまでに生きようと思ったのだろうか?
「でも、殺されるか、一縷の望みにかけて生き残ろうとするか、それはきっと希望があるかどうかにかかってるんだろうね」
 兄貴は相変わらず惚けながら歩いている。前方の女性に見とれているようにも見えるし、あの事件の回想にふけっているようにも見える。
「兄貴が、地下の両親に会わせてあげればよかっただろうに」
「だめなんだよね。あの夫婦は完全に、自分の娘を見限っていた。そしてそれ以上にΣ計画に魅了されていた」
「なんの計画かは知らないが、爆弾魔になるほどひねくれて、それでも実の娘を放っておくようなことか」
「まあ、放っておくようなことなんだよ。Σ計画――すべての優れた遺伝子を総和した人間を作り上げる計画――その試作品が、柴等子のクローンだったわけであるしね」
「それがどうしても、ついていけない」
 研究のために、我が子を犠牲にするというのだろうか? 全く私には理解しかねる。
「でもね、オリジナルの柴等子には感心するよね。自分の屋敷の部屋に爆弾を仕掛けた後、クローンの柴等子によってその部屋の中に閉じ込められちゃってさ。頑丈な手錠で壁の手すりに繋がれて、それでも、それでもさ、爆死を回避して生きようとするなんてね」
 その推察は私も同様である。しかし、わざわざこの場で述べる必要があるのだろうか。右隣で消沈している妹は、すっかり血の気がひいていて、今にも卒倒しそうである。
「今回の事件、別に対した事件ではないではないか」私は妹をかばうように兄貴へ叱責する。「被害者である爆弾魔と柴等子がオリジナルとクローンである事実、爆弾魔が死んだ後は柴等子と九論の二人で予告状を配布していた目撃談、この二つで九論と柴等子は拭いきれない嫌疑にかけられることになる。九論と柴等子のアリバイ工作などは解決する必要もない」
「ほう、弟よ、全くよいことを云う」
 兄貴は棒読み気味にそう云った。
 そう、本日は気分転換のための、家族水入らずのショッピングである。優しい妹のことだ。爆弾魔――オリジナルの柴等子自身が仕掛けた爆弾部屋の中で、クローンの柴等子に手錠で閉じこめられた結果、生きるために、これからも生きたいがために、確実に爆死してしまうであろうその部屋から抜け出すために。
 それがクローンの柴等子の策略であることは知っていても。
 唯一手錠をかけられなかったる右手で、側に突き立てられた斧を持ち。
 手錠をかけられて身動きのとれない左手、右足、左足を解放するために。
 自分自身の左手首、両足首を斧で切断して。
 やっと手錠から解放されて、その部屋に仕掛けられた爆弾から逃げ出そうとしてが、しかしその部屋の扉は外部から頑丈に閉ざされていたことなど。
 妹に云えるはずもない。
 まして。
 それにもまして、翌日、その部屋の中で、左手首・右足・左足の出血多量で息耐えた爆弾魔を、九論がさらにバラバラに刻んだことなど、誰が妹に教えてあげることができようか。たとえその九論の行動が、手首と両足首の切断をごまかすためであったとしても。
 たとえそれが、クローンである柴等子が、オリジナルである柴等子を殺意をもって閉じこめた事実を隠し通すものであったとしても。
「あの日、爆破はされていないんだよね」
 兄貴はめずらしく、声を落とした。
 兄貴の云う通りである。それはつまり、その日――私と柴等子と九論が、柴等子の屋敷を訪ねたとき――九論が爆弾を見つけ、解体したことになる。
 その後は残酷にも、オリジナルの柴等子の顔面に血文字を刻んだのであるが。
「俺は優秀なクローンを作ったんだね、実にもったいないよ」
 私は言葉を返すことなく、前方を見据えた。
 象の着ぐるみが近づいてきていた。どうやら妹に興味を示したらしい。妹の方へズカズカと近づいてきている。
 象の着ぐるみの後方からは、子供が駆け寄ってきている。象の着ぐるみに構ってほしいのだろう。
「こらー! 走ったら危ないよー!」
 妹が象の着ぐるみの肩越しに、子供たちへ注意をする。まるで子供たちを愛する親のようである。
「……なにを買おうか」
 私は呟き、思った。
 親が子供を愛するように、子供は親を愛する。
 それはクローンの親とクローン自身も同じなのだろうか?
 クローンは、研究所地下の両親を愛していたのだろうか?
 爆弾魔は、見放した親を愛していたのだろうか?
 そしてクローンは、そんな爆弾魔を憎んでいたのだろうか?
 オリジナルを憎んでいたからこそ爆弾部屋に閉じこめたのか、やはり研究所地下の親を愛していたからこそ、そのオリジナルの子に嫉妬し、爆弾部屋に閉じこめたのか。
 爆弾間とクローンと九論と、彼女らの思いと、そして彼女らが選択する生きる意味と。
 私は近々、クローンと九論にたずねてみることにした。
 傍らで拳骨を掲げ、スカートめくりをする子供たちを叱る妹を見ながら。


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